生育暦 :小学校 (生活)

遊びのテンポについていけない
ADD/ADHDが原因? :小学校時代19

子どもというのは成長に従い、少し複雑なルールの下での速い展開のゲームを好むようになる。

そして、その様なゲームを楽しむためには、以下の能力が必要だ。

瞬時にルールを想起し、瞬時に判断・行動

私には、そのどれもが苦手だった。

何が最も困難かと言えば、瞬時にと言う部分だ。

ルールを思い出すのに時間がかかる上、状況判断にもモタつき行動が遅れる。(ADD/ADHDの実行機能の弱さが原因か?それともLDの情報処理の問題?)

こんな子どもが、普通の子ども達の中で遊ぶとどうなるか?

ハッキリ言ってゲームにならない。

いちいちモタつきゲーム進行の妨げになり、あっけなく負けてしまったりするので、他の子はイライラしてしまう。

「のろま!」とか「早くしろカメ!」などとバカにされた挙句に集中攻撃され、それに対してキレて毎回ケンカになりゲーム終了。

だから私は集団遊びが嫌だった。

1人教室で、絵を描いたり本を読んで過ごしている方が楽しかった。

しかしそんな私を、担任は放っておいてはくれない。

「外で遊びなさい。どうして皆と遊ばないの?」

よくそう問い詰められ、苦し紛れに「皆が入れてくれないから」と答えていた。

それを聞いた周りの子は「嘘つき!」と私を非難した。

確かに、「皆が入れてくれないから」というのは事実に反していた。

しかし当時の私には、なぜ皆と遊びたくないのか自分でもよく分かっていなかった。

私はキレてケンカになった後、その原因について思い出せなかった。

記憶が飛んでしまうのだ。
(ADD/ADHDの物忘れなのか?解離性健忘なのか?)

だから私の記憶では、皆との遊びは説明不能な漠然とした不快感と結びついているだけで、その不快感を呼び起こす具体的事実を思い出すことが全く出来なかった。

なぜ皆と遊ばないのかと聞かれても、記憶がないのだから困ってしまう。

しかし先生に問い詰められれば、何か答えなければならない。

きっと私が遊びたくないと思うのは、「皆が入れてくれないから」なのだろう。

記憶がないので、推測でもっともらしい答えを導き出したというのが本当のところだった。

本人にさえ遊ばない理由を正しく説明できないのだから、上手く遊べない原因は先生にも誰にも分からなかった。

そのせいで、以下の展開が何度となく繰り返された。

遊びのテンポについていけない
(ADD/ADHDの実行機能の弱さが問題?)
   ↓
バカにされ、キレてケンカになる
   ↓
ケンカになった経緯の記憶喪失
(ADD/ADHDの物忘れ? or 解離性健忘?)
   ↓
教室で1人遊び
   ↓
「どうして皆と遊ばないの?」と担任の注意
集団遊びの強制
   ↓
何故なのか記憶が無いので自分でも分からず、
「皆が入れてくれないから」と推測で答える
   ↓
「入れてあげなさい」と担任が皆に注意
集団遊びの強制
   ↓
仕方なく皆と外で集団遊び
   ↓
振り出しに戻る

遊びのテンポについていけない事と記憶喪失の問題に加え、集団遊びの強制が人間関係をさらに悪化させていった。

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聴けない聴き取れない理解できない :小学校時代18

小学校の頃は「話しを聞いていない」と、よく注意された。

私の「話しを聞いていない」原因は、以下の4点が組み合わさっているようだ。

1.ボーッとして意識がどこかへ行ってしまっている
(ADD/ADHDの不注意?)

授業中でも休み時間でも、ボーッとしていることが多かった。
何か考え事をしていたり、白昼夢を見ていたり、過去の記憶映像を再生していたり…。

2.色々な考えが浮かんでしまい、話しを聞き逃す
(脳内が多動?)

例えば授業中、今読んだ教科書の内容についてワーッと色々な考えが浮かんでしまい、自分の考えに注意を奪われている間に、先生の指示を聞き逃してしまうことがよくあった。

ADDや成人のADHDには、一見多動がないように見えて「脳内が多動」ということがあるらしい。
つい考え事に耽ってしまう私のクセは、ADDの特性によるものなのかもしれない。

3.話しが聞き取れない

聞き返しや聞き間違いが多い。

音としては聞こえていても、言葉として理解できるほどクリアには聞こえていないことがある。

例えば、雑音下での聞き取りや不明瞭な発音など、聞き取れないことがよくある。

私は最近まで、それを当然のことと思ってきた。

しかし雑音下であっても、他の人が問題なく聞き取れている状況で、私だけが聞き取れないのはおかしいらしい。(自分の聞き取りに問題があるとは全く疑いもせず、それに気付いたのは、最近発達障害の本を読むようになってからだ。)

今思い返せば、先生からも何度か耳が悪いのかと訊かれたことがあったが、学校の聴力検査で引っかかったことはないので、何でそんな変なことを聞くのか不思議だった。

友達と話していても、2回までなら聞き返すこともできるが、さすがに3回目は聞けないので、曖昧に適当な返事をしていた。

相手の言うことを推測して、無意識のうちに聞き取れない言葉を脳内補完するクセが付いてしまい、聞き間違い(脳内補完の間違い)のせいで話しが噛み合わなかったり、後でトラブルになったりすることがある。

無意識にやっていることだけに、修正が難しい。

4.聴いているのだが、理解できない
(学習障害?  聴覚的理解<視覚的理解 のせい?)

特に体育の授業では、口頭で複雑な指示を出されることがよくある。

例えば、どんな風にグループ分けをして、どのコートを使い、交代はどうするのかといったことを1度に口頭で説明される。

しかし私には、視覚的な手がかり無しに複雑な指示を理解するのは難しい。

真剣に聴いているのに、先生の話についていけない。

結局1度聴いただけでは理解できず、後で友達や先生に聞くのだが、聞いていないから分からないのだと怒られる。

聴いていないのではなく、聴いていても分からなかったのだが…。

図を使って説明してほしかった。

大人になってから発達障害の検査で受けたWAIS-Rでも、1度聴いただけでは理解できなかったり、聞き返しや勘違いが多く、聴覚的な注意力の問題を指摘された。

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忘れ物大王 :小学校時代17

小学校時代の私は、忘れ物大王だった。

あまりの忘れ物の多さに、「もっとがんばりま賞」などという不名誉な賞状を何度もらったことか。

しかも私が忘れるのは物だけではない。

学校で整列する時の並び順や、自分の教室・机・クツ箱の位置、そんなものまで夏休み明けには忘れている。

しかも毎年だ。

どうして自分は、普通なら忘れないようなことも忘れてしまうのかと呆れる。

夏休みが明けて始めて登校する時はいつも不安だった。

『クツ箱どこだっけ?』と思っても、まさかそんなことを人に聞けない。

児童数が1000人を超えるマンモス校だったから、自分のクツ箱1つ見つけるのも容易じゃない。

早く教室に行かないと遅刻になってしまうから焦る。

人気のなくなった昇降口で困ってウロウロしていると、たまたま通りがかった他の学年の先生が、どうしたのかと聞いてくる。

「クツ箱がどこか分からない…」

「自分のクツ箱がどこか覚えてないの?あなた何年生?3年生にもなって自分のクツ箱が分からないの!?しっかりしなさい!」

先生は呆れていた。

先生に探してもらって自分のクツ箱は分かったものの、今度は教室が分からない。

『私、何組だっけ?』

自分のノートの名前欄を見て、自分が何組だったのかを確認。

ようやく教室にたどり着く。

先生が到着したのと同時だった。

『私の席はどこだっけ?』

「席に着いてください朝の会を始めます」

日直が席に着くよう言っているが、自分の席が分からない。

「黎さん早く席に着きなさい」

先生から注意が飛ぶ。

私だって早く席に着きたい。

しかし、焦れば焦るほど分からない。

それに、まさか自分の席が分からないなんて言えるはずない。

バカにされるのが落ちだ。

困って立ち尽くしていると、先生から2度目の注意がかかる。

そしてそれにクラスメイトの非難の声が続く。

先生もクラスメイトも苛立っていた。

もう本当のことを言うしかない。

「席が分からない…」

クラス中からいろんな声がドッと上がった。

「自分の席がからないってバカじゃねー!?」 「死ね!」 「席はここ!」 「帰れ!」 「ここだって!」 「もう学校来るな!」 「ここ!」 「席は早く席着けボケ!」 ここ!」幼稚園帰れ!」 死ね!」

非難と罵声の声の他、席を教えようとする声も混じっていたが、声の洪水の中で、それがどこから聞こえているのか見つけることは出来なかった。

私はいっそう混乱し、パニック状態で何がなんだか分からなくなった。

恐怖だった。この混乱状態が。

私はこの事件以来、机に自分にだけ分かる目印をつけるようにした。

また、もっと大きくなって高校生くらいになると、夏休みの間に何度か自分の教室や机の位置を思い出すという方法で忘れないようにした。

私には、他の子の記憶力の良さが羨ましかった。

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心に残る言葉 :小学校時代16

小学6年生。

卒業式の後のホームルームで、担任はこんな話をした。

学生時代の友達というのは特別なものだ。

学校の友達と社会に出てからの友達ではどうしても違う。

一緒に馬鹿やって怒られて、自分の良い所も悪い所もよく知っている、そういう学生時代の友達は、大人になっても本当の友達付き合いができる。

しかし会社で知り合った友達はそうはいかない。

だから学校の友達を大切にしなさい。

そして一人でいいから、一生の友と呼べる親友を見つけなさい。

友達はたくさんできても、一生の友と呼べる親友はそう簡単に見つかるものではない

一人か、多くても二人だろう。

しかし、そのただ一人の親友が、辛い時・苦しい時君達の支えになる。

親友は人生の宝だ。

『大人になったら、本当の友達はできない』

『大人になる前に親友を見つけなければいけない』

その時の私は、先生の話をそんなものかと、なんとなく聞いていただけだった。

しかし後に気が付けば、この言葉は私の胸に深く刻まれ、折に触れては何度も思い出すことになった。

学校の友達を大切にしなさい

そして一人でいいから、一生の友と呼べる親友を見つけなさい

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遅すぎたイジメ対策 :小学校時代13

私の通っていた小学校では、担任は毎年変わるが、クラス替えは3年と5年の2回しか行われない。

5年生で一緒になったクラスメイトは、ほとんどが長子だった。

当時は今と違って、2・3人兄弟というのが普通だったので、これはかなり偏ったメンバー構成と言える。

出生順位による性格傾向として、長子は競争心がうすくのんびりしていると言われており、実際おっとりとした子の多いクラスだった。

担任も初めて男の先生で、しかもこの先生はクラブ活動でお世話になってよく知っていた。

これらは、イジメ対策としての配慮だったのかもしれない。

5年生最初の国語の授業で、作文を書くことになった。

テーマは「5年生になって」。

普通は5年生になっての抱負とか希望に満ちた内容を書くのだろうが、新学期早々私が書いたのはイジメと自殺企画に関するものだった。

1年生の頃からずっとイジメにあってきた。

どの先生も助けてくれなかった。

飛び降り自殺を考えたけど、痛いのは嫌。

自殺するなら痛くない睡眠薬がいい。

要約すると、そんな内容だった。

すでに人間不信で誰にも頼らなくなっていた私が、それでも作文の中でSOSを発したのは、今度の担任が初めての男性教員で、しかもクラブ顧問として、よく目をかけてくれた先生だったということが大きい。

女の先生は頼りにならなかったが、力のある男の先生なら何とかなるかもしれないと、わずかな望みを作文に託した。

後日イジメをテーマに学級会が開かれた。

先生は、私がイジメに悩んで自殺を考えてきたことを皆に話した。

そして、イジメは断固として許さない構えであること、その第一歩として机をくっつけることから始めると宣言した。(それまで男子は、私を避けて机を合わせようとしなかった)

男子は、最初のうちは先生の言うことをきこうとしなかった。

それでも先生は「机をくっつけないなら、溶接するぞ!」と、一歩も引かぬ姿勢を貫き通した。

そうするうち、しだいにイジメは沈静化していった。

罵声を浴びせられることも、プロレス技をかけられることもなくなり、イジメはほぼ無くなった。

少なくとも表面的には…。

対策が遅すぎたのだ。

4年間という長期にわたってイジメ行為を繰り返すことで、それは意識的はイジメではなく無意識の差別感情に基づくものへと変わっていた。

私への差別感情は彼らの心にしっかりと食い込み、意識的に行われるイジメはなくせても、差別感情まではなかなか消せるものではなかった。

イジメをなくすくのは難しい。

でも、差別をなくすのは もっと難しい。

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人間不信 :小学校時代12

男子から激しいイジメを受けていた私は、休み時間のたびに男子と格闘せねばならず、女子の多くはそんな私を怖がったり迷惑がって避けていた。

普通、小学校の3・4年生ともなると、女子は特定の仲のよい子と仲良しグループを作るものだが、私に友達は少なく、クラス内で仲のよい友達といえばKちゃんただ1人だった。

Kちゃんは、見るからに気の弱そうな、おとなしい女の子だった。

私と一緒にいることで、Kちゃんまでイジメられることがあったが、気の弱い彼女が男子相手に戦えるはずもない。

そんな彼女が選んだのは、自分にイジメの矛先が向かぬよう私から離れて、他のクラスメイトの群れに混じって目立たぬよう傍観者に徹することだった。

しかし、時には傍観者でいられない事態も起こる。

ある水泳の授業の後、女子は男子の着替えが終わるのを教室の前で待っていた。

すると、着替えを終えた一部の男子が、廊下に面した高窓から私にボールをぶつけてきた。

私はドッジボールでもボールをキャッチできたことがないので、それを踏まえての攻撃だった。

教室にボールは2つしかない。

男子は手持ちのボールが無くなると、廊下にいる女子にボールを投げ返すよう命令した。

命令された女子は、自分がイジメのターゲットとなることを恐れ、男子の命令に従った。

Kちゃんも男子から「返せ!」と命令された。

彼女は一瞬躊躇したようだったが、男子から命令されて返さないわけにいかなかった。

ボールを返さなければ、イジメはそこでストップするのに…。

Kちゃんは後から「ごめんね、ああしないと私までイジメられるから…」と謝ってきた。

「いいよ…」

友達だと思っていた彼女の裏切りに強いショックを感じたものの、怒りは感じなかった。

私が感じていたのは、何ともいえない、あきらめの感情だった。

『人間誰しも自分が1番大切なんだ』

『自分を守るためには友達も平気で裏切る』

それが人間というものなのであって、彼女は当然のことをしたに過ぎない。

人に対する信頼なんてものは、フィクションの世界にしかない。

そんなものを信じるなんて、「マンガの見過ぎ」だ。

そう納得するしかなかった。

そうでないと、とてもやっていけない気がした。

教師・親・友達、人から裏切られるたび心の中で何かが壊れていく気がしたが、私になす術はなく、厳しい現実を受け入れるしかなかった。

4年生になる頃には、私はもう誰も本気で信じなくなっていた。

表面的に信じたフリはできても、いつも心の片隅には『きっといつかは裏切る』という思いがあった。

そうやって心に保険をかけておくことで、裏切られた時のショックも小さくてすむ。

本当は誰か信じられる人間に出会いたかったが、結果はいつも『人は信じるに値しない』と確認して終わった。

      ―→つづく『遅すぎたイジメ対策 :小学校時代13』

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イジメの内容を書けと言われても… :小学校時代11

担任はイジメ対策として、誰に何をされたのか、イジメの内容をノートに書くよう言った。

しかし学習障害の私は、書字そのものに困難さがあるうえ作文能力ゼロだ。

書けるはずがない。

日頃の授業の様子を考えれば、私が文章を書くのは難しいと分かりそうなものなのに無茶を言う。

そして、さらに書くのを難しくしているのが記憶の問題だ。

何か嫌なことがあったのは覚えているのに、それが何だったのかハッキリ思い出せないのだ。

例えば、イジメに対してキレて無茶苦茶に怒った後、何が原因で怒ったのか思い出せないことがよくあった。

先生が駆けつけて、原因は何なのかと聞くのだが全く思い出せない。

何かとても嫌なことがあったのは間違いないのに、具体的に何をされたのかという記憶がすっぽりとなくなっている。

ほんの数分前の出来事だというのに…。

正直に「忘れた」と答えると、先生からは「忘れた!?そんな少し前のこと忘れるわけないだろ!」と怒られた。

先生は、私が自分に不利なことを隠そうとして嘘をついていると思ったようだ。

自分でも、たった数分前のことを覚えていないのは不思議だった。

しかし、実際に忘れているものはしょうがない。

先生には信じてもらえず、記憶がないために悔しい思いをすることがよくあった。

(ADDゆえの忘れっぽさによるものなのか、それとも「解離性健忘」というやつだろうか?成人した今でも、ショックなことがあると記憶を失くすことが稀にある。)

ともかく、こんな状態なので、どんなイジメがあったのか思い出そうとしても、「誰に」「何を」されたのか「何と」言われたのか、肝心の具体的詳細が思い出せない。

多少思い出せたとしても、「誰に」の部分は思い出せても「何と」言われたのか覚えていなかったり、「何を」されたのか覚えていても「誰に」されたのか覚えていなかったり…、記憶がはっきりしない。

「誰に」と「何を」が重要なのだから、そんな曖昧な記憶で書くわけにいかない。

作文が苦手な上に記憶がハッキリしないのでは、どうすることもできなかった。

担任は母に「本人が書いてこないので対策の取りようがありません」と言ったらしい。

記憶がなくなるという問題は、担任も知らなかったから仕方がないが、私に文章力が無いことはよく知っていたはず。

私に書けるはずないことは、最初から担任にも分かっていたはずだ。

にもかかわらず、ノートに書いてくるよう指示したのは、そうやって言い訳するのが目的ではなかったかと勘ぐりたくなる。

            ―→つづく『人間不信 :小学校時代12』

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届かないSOS :小学校時代10

私にとって学校は戦場だった。

どこから攻撃されるか分からず、いつも気を張っている。

給食でさえ、拷問の時間に変わる。

監視され、食べきれない量の食事を無理やり食べさせられる。

戦いと拷問の日々に、心も体も疲れて果てていた。

眠りから目覚めても体はぐったりと重く、なかなか起きれない。

ストレスのせいで、3年生の後半からはチック症状がでるようになった。

不登校気味になり、その度に、先生はクラスメイトの謝罪文をもって迎えに来た。

しかし、イジメは止まない。

学校に行きたくない。

でも行かなければならない。

夜眠るたび、このまま2度と目覚めなければいいのにと思った。

私を取り巻く世界は悪意と狂気に満ちていて、眠りの中にしか癒しも安らぎも求めることが出来なかった。

2度とこの狂った世界に戻りたくなかった。

しかし、無常にも朝はやってくる。

私は、また学校という戦場に赴かなければならない。

学校にあるのは、嫌悪に敵意、暴力と罵声。

「死ね」と叫ぶクラスメイトの、狂気に満ちた目。

クラス中が、私の死を願っていた。

何度も自殺を考えた。

イジメっ子は、自分の手を汚さずに人を殺す方法を、天性の感で知っているらしい。

執拗に繰り返される嫌がらせと暴力。

放っておいてほしかった。

でも放っておいてはくれない。

やつらは、私を精神的に追い詰めて自殺に追いやるつもりなのだ。

『自分を殺すか、相手を殺すか?』

私は追い詰められていた。

先生も親も、誰も助けてはくれない。

頼れるのは自分だけ。

自分の身は自分で守らねば。

「生きるか、死ぬか」「殺るか、殺られるか」だ。

私は刃物を手に戦うようになった。

生き残るために。

自分が殺されるかもしれないという時、人がとりうる行動の選択肢は限られている。

大勢の男子相手に独力で身を守るには、もうそれしか方法がなかった。

万一、相手に怪我をさせたとしても正当防衛だと思った。

刃物で脅して、イジメが止むならそれでいい。

あるいは、さすがの先生も今度ばかりは本気でイジメ対策に乗り出すかもしれない。

イジメが無くなることを期待していた。

私の思惑通り、この一件は職員会議で問題になった。(この話しは、学校で非常勤講師をする伯父から母へと伝えられた)

しかし職員会議の行方は私の期待に反し、イジメを止めさせる動きにはならならかった。

私の問題行動をどうするかにのみ話しは終始し、その背後にあるイジメ問題については言及されなかったらしい。

学校は、私を「些細なことでカッとなる問題児」としてマークしただけで、イジメに対して何の対策もとらなかった。

助けを求める声ならぬ声は、聴く耳を持つ者がいなければどこにも届かない。

                ―→つづく 「小学校時代11」

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学級崩壊 :小学校時代9

3年生も後半になると、ほぼ学級崩壊の状況に陥っていた。

参観日、背後に親の目がある状況下ですら、イジメは平然と行われた。

その日は授業参観後に懇談会があるため、参観を終えた親達は帰りの会の様子もついでに後ろで見守っていた。

帰りの会のプログラムには、1分間の瞑想タイムがある。

イジメは、この瞑想タイムを利用して行われた。

瞑想が始まると、日直が私を名指しで注意し始めた。

「黎さん、動かないでください」

「黎さん」「黎さん」「黎さん「黎さん」「黎さん」「黎さん」

もちろん私は動いていない。

しかし瞑想タイムの間、ずっと日直は私を注意し続けた。

異様な状況に、後ろで見ている父母達からは、一体何が起こっているのかとざわめきが起こった。

先生はこの異様な状況を無視して、自分の机で下を向き書き物をしていた。

後ろからは状況がハッキリとつかめないが、前にいる先生からは、見ようと思えば何が起こっているのか、よく見えるはずなのに。

学級崩壊の状況下、担任には何の力も無かった。

イジメの現場を目の当たりにした母は、初めて担任教師に苦情を言った。

しかし先生の答えは「お宅のお嬢さんにも悪いところがあります」だった。

苦情を言いに行ったはずが、逆に散々欠点を指摘され注意され、返り討ちにあって帰ってきた。

学級崩壊で精神的余裕のない担任にしてみれば、学級経営の失敗を責められていると感じ、自己保身に走るしかなかったのだろう。

しかし母の世代にとって、先生とは偉い人「先生様」なのであって、その先生に苦情を言うことは非常に勇気のいることだった。

しかもその「先生様」から、「お宅のお嬢さんにも悪いところがあります」などと言われ、もっともらしく説明されると簡単に信じてしまう。

学校から帰ってきた母は、先生の言い分に完全に洗脳されていた。

そしてそれ以降、私が何を言おうと「あなたにも悪いところがあるのでしょう」という返事しか返ってこなくなった。

自己保身しか考えない担任と、その担任に洗脳された母親。

誰も信用できない。

誰も頼りにならない。

誰にも相談できない。

私は1人で戦うしかなかった。

        ―→つづく「届かないSOS :小学校時代10」

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居場所のない子ども :小学校時代8

イジメが悪化するにつれ、私に関する色々な噂が流れた

噂には尾ひれがつく。

例えば、「何もしていない人に、突然イスを振り上げて殴りかかる凶暴女」とか。

私は平和主義者だ。

もちろん、何もしない相手に暴力を振るったりはしない。

しかし噂では、とにかく「とんでもない嫌なヤツ」ということにされていたらしい。(当時の私は噂の存在を知らなかったが、中学になって友達から「イメージが噂と全然違う」と、当時の噂を聞かされた。)

そして噂は、学年全体はおろか学校中に知れ渡り、私は嫌な意味で学校の有名人だった。

噂のせいで、私は全く面識のない子と廊下ですれ違っただけで、蹴られ罵声を浴びせられた。

クツには画鋲や砂を入れられ、筆箱にはハエの死骸を入れられた。

クツを便器に捨てられたことも何度かあった。

朝学校に行くと、自分のの席が無くなっていたこともある。

机は、やはりトイレに捨てられていた。

よくあることなので、何かが無くなれば、それはたいていトイレかゴミ箱に捨てられていると相場が決まっている。

物を見つけるのは容易いが、誰がやったのか分からないので、反撃しようがない。

私は出来るだけ無表情に、何の感情も浮かべず、机を教室へ戻した。

机や黒板に、悪口や「死ね」と書かれることもよくあった。

やはり私は、出来るだけ無表情に何の感情も浮かべず、それらを消した。

感情を悟られてはいけない。

弱みを見せれば相手の思うツボだ。

ドッジボールに見せかけて、集中攻撃するという手口でイジメられたこともあった。

これだと私が先生に訴えたとしても、「イジメじゃなくてドッジボールをしていただけ」と上手い言い訳が出来る。

それを聞いた先生は、私を「ゲームのルールを理解せず、自分勝手な理由で怒るワガママな子」としか思わない。

名前に「菌」をつけて「○○菌」と呼ぶというのも、イジメの方法として全国的に流行っていた。

私はバイ菌扱いされ、私が触れた物に他の子は触ろうとしなかった。

人ごみの中でも、私が通ろうとすると人の山がザッと分かれる。

あるいは、わざと触れて「○○菌がついた!」と大げさに騒ぎたて、他の子に触って菌をうつし、触られた子もまた他の誰かにうつすという嫌がらせ。

人として扱われない日々が続いた。

休み時間にはプロレス技で攻撃された。

ツバを吐きかけられ、蹴られ、「死ね」と罵声を浴びせられた。

私はいつも、死に物狂いでやり返していた。

私の必死の抵抗にかなわないと見ると、周りの男子がイジメに加勢してくる。

だからいつも最後には、5・6人の男子を相手に1人で戦うことになる。

駆けつけた先生が見るものといえば、半泣き状態のイジメっ子5・6人を相手に、怒り狂って大立ち回りを演じている私の姿だった。

先生は私に「本当に自分に悪いところはないのか」と聞いた。

つまり「お前にも悪いところがあるはずだ」と言いたいわけだ。

私は、攻撃されてやむ終えず反撃したに過ぎない。

自分に非はないのに、悪いところがあるはずだと追及され、思い当たることといえば「自分が生きて存在していること」しかなかった。

いつも皆から、「お前の存在自体が間違いなんだよ!死ね!」とか「お前が死ねば、みんなが幸せになる」などと言われていたから。

自分の存在自体が間違っているのだとすれば、確かに私にも悪いところがあることになる。

だから私は「悪いところがあったかもしれない」と答えた。

先生も、私が死ねばいいと思っているのだと感じた。

私の存在は間違ってるのか?

生きていること自体がいけないのだろうか?

「死ね」と罵声を浴びせられ、蹴られ、バイ菌扱いされ、人として扱われない毎日。

先生は「イジメられる方にも問題がある」と言い、親もそれを真に受けて私を信じてはくれない。

学校でも家でも存在を否定され、私の心の居場所はどこにもなかった。

「生きていること自体が間違いで、世界中のどこにも自分の居場所はない」という感覚は、私の心に深く根を下ろし、その後、新たな出会いを経験するまでの約20年間、私の人生を支配し続けた。

           ―→つづく「学級崩壊 :小学校時代9」

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イジメの始まり :小学校時代7

事故のために脳内出血を起こし入院していた私は、2週間ほど遅れて小学校に入学した。

入学すると、すぐに男子からのイジメが始まった。

最初は、学習の遅れや身体的な特徴をしつこくからかったり、悪口を言って挑発するといった、どこにでもある些細なものだった。

悪口に対して、私も最初は口で対抗するのだが、相手のほうが口達者なので到底かなわない。

しかし私は、悪口を言われて泣くようなタイプの人間ではなかった。

しつこく挑発する相手には、猛然とつかみ掛かっていった。

教室内は大騒ぎになり、やがて先生が駆けつけ仲裁に入る。

そして決まって言われるのは、「先に暴力を振るったほうが悪い」「言葉には言葉で返しなさい」だった。

喧嘩を仕掛けたのは相手の方だし、いくら言っても止めないのだから仕方ないのに、いつも私の方が悪者にされてしまう。

そして、それを分かっていて先生を味方につけ、しつこく挑発を繰り返すのが、ずる賢いイジメっ子のやり方だった。

教師も親も「挑発にのる方が悪い」「反応があるから面白がってやるのだから、無視しなさい」などと言って、真剣に取り合おうとはしなかった。

私は、言っても無駄なのだと思い、しだいに誰にも相談しなくなった。

大人がイジメの芽を見過ごし悠長に構えている間に、イジメは刻々とその深刻さを増していった。

そして3年生になるとイジメは激化し、ほとんど学級崩壊の状態に陥った。

イジメが激化した原因の1つには、担任の学級経営のまずさがあった。

担任は、やたらと競争をさせたがった。

漢字テストや宿題・給食、ありとあらゆる事をグループで競わせ、その結果を壁に掲示するのだ。

漢字が苦手で少食な私は、グループのお荷物でしかない。

いつも何かにつけ競わされるので、クラス全体がギスギスして落ち着かず皆苛立っていた。

そんな状況下で、行動が遅くマイペースは私の存在は目障りでしかなく、ストレス解消の格好の標的となった。

担任は自分の学級経営のまずさを棚に上げ、いじめの原因は私の行動の遅さにあると責任転嫁した。

3年生の通知所見欄にはこう書かれている。

「給食を食べること、学習作業も他の友達より遅いようで、これが級友とのトラブルの原因にもなっています。」

標準から外れる人間は、イジメられて当然と言いたいのか?

イジメの原因は、くだらないグループ競争で差別意識を生じさせた担任にある。

     ―→つづく「居場所のない子ども :小学校時代8」

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通知表所見 :小学校時代6

小学校時代、私は問題児として見られていた。

通知表所見欄は、発達障害を思わせるコメントのオンパレードだ。(※ 昔の通知表所見は、今と違って悪いことも書くことができた)

いいことなんて、ほとんど書いてない。

ためしに、どんな内容のマイナス・コメントが多いのか、集計して積み上げグラフにしてみた。

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最も多かったのは、「集中力・意欲・学力にムラがある」といった内容で、小学校6年間で14回も指摘を受けている。

次に多いのが「対人トラブル・すぐにカッとなる」といった内容で10回。(イジメに対して猛反撃をしていたのを、先生には「すぐにカッとなる」と受け取られたようだ)

そして「行動が遅い・マイペース」9回、「人の気持ちが分からない・社会性がない」7回、「忘れ物・物忘れが多い」4回と続く。

グラフでは、2年生の時には減少していたマイナス・コメントの総数が、3・4年生で激増し5年生で激減するという変化が目に付く。

これは3年生の時に激化したイジメが、5年生で沈静化に向かったことと一致する。

また3年生では、「集中力・意欲・学力にムラがある」が無くなり、かわりに「対人トラブル・すぐにカッとなる」や「人の気持ちが分からない・社会性に欠ける」が増えている。

しかしこれは、集中力や学力のムラが改善されたのではなく、イジメの激化により、他の重要度の高いコメントが優先されたためと考えられる。

ちなみに、通知表には所見欄とは別に、生活の様子について3段階で評価する欄があるのだが、ここでも「人の気持ちや立場が分かり、仲良く助け合う」の項目が、6年間ずっと最低のC評価だった。

自分はイジメられることはあっても、誰かをイジメたり悪口を言うようなことは1度もなかったので、「人の気持ちが分からない」と評されることが不思議でならない。

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